福岡人のページ > 主張(平成15年)

平成16年の主張 平成14年の主張

日本の防衛は憲法改正から

平成15年7月1日

 自衛隊は憲法第九条に反する軍隊である―こう書くと私は共産党か旧社会党かと誤解されるかもしれないが、私は自衛隊必要論者である。その私でも現憲法の九条を忠実に解釈すればそのようにしか読み取ることができないのである。この第九条の第二項は陸海空軍などの戦力を保持することを認めていないが、我が国は自衛隊という立派な戦力を持っている。つまり、憲法を素直に解釈すれば、我々国民の安全を日々守ってくださっている自衛隊の方々は憲法違反の存在に置かれていることになる。果たしてこのような状況が許されるべきことなのだろうか。
 これまで政府や政治家は「自衛隊は軍隊ではないから憲法に違反しない」などと言って、この手の議論を拒み、国民や国際社会をごまかしてきた。しかし、あれだけの武器・弾薬を保有する自衛隊のことを軍隊と思わない人は世界中を探しても、霞ヶ関や永田町以外にはいないのではないだろうか。元陸上自衛隊幹部の志方俊之・帝京大教授もあるテレビ番組で「自衛隊は軍隊ですよ」と言っていた。自衛隊の幹部だった方がおっしゃるわけだから間違いないだろう。
 今年五月、小泉総理が国会で「自衛隊は実質的に軍隊である。しかし、それを言ってはならないということは不自然だ。いずれ憲法でも自衛隊を軍隊と認めて、違憲だ、合憲だという不毛な議論することなしに、日本を守る、独立を守る、国民を守る戦闘組織に対して名誉と地位を与える時期が来ると確信している」と発言し、ようやく政治家の認識が国民に近づいてきた感じがした。
 総理は就任直後の国会論議の中で憲法改正について、「政治の現実的課題として首相公選制を取り上げてもいいのではないか」などと述べていたが、現実的課題は首相公選制ではなく第九条なのである。総理には首相公選制など後回しにして、まず第九条の議論を始めてもらいたい。
 そもそもこの問題は昭和二十七年四月二十八日、日本が主権を回復した日に始まった。昭和二十二年に施行された日本国憲法は、国家元首を定めていなければ、戦力を保有することも認めていない。当時の日本はアメリカの占領下にあり、主権国家ではないので、そのような憲法でもよかったのかもしれない。
しかし、二十七年四月二十八日以降の憲法としては極めて不適格と言わざるをえない。日本はこの日を境に、主権国家として、国家元首や軍隊について明記した新しい憲法を持たなければならなかったはずだ。主権を回復して五十年以上経った今もなお主権国家としての憲法が定められていないのは政治の怠慢にほかならない。なかでも、戦後の大部分を政権党として歩んできた自由民主党の責任は大きい。自民党は昭和三十年の結党に際して発表した「党の政綱」の第六番目に「独立体制の整備」を掲げている。これによると、「平和主義、民主主義、基本的人権尊重を堅持しつつ、憲法の自主的改正をはかる」とある。また、「世界平和と国家独立を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を備え、駐留外国軍隊の撤退に備える」とある。しかし、実態はどうだろうか。自衛隊は昭和二十九年に発足しているので自衛軍備とは自衛隊のことではない。また、駐留外国軍隊すなわち米軍に対しては、基地以外に「思いやり予算」とも揶揄される莫大な費用を提供し、米軍が撤退する気配などしない。私は米軍の駐留が悪いとも、予算の負担が悪いとも言っていない。在日米軍が東アジアの平和と安定に大きく寄与しているのは事実である。けれども、自国の防衛ぐらい米国に頼らず、自衛隊だけでやるべきではないだろうか。結党から半世紀を経て、今なおこの理念は達成されていない。というよりも、達成しようという気力すら見られない。自民党の立党精神はどこに行ってしまったのだろうか。今こそ立党精神に立ち返らなければならない。
現在の日本は、北朝鮮問題に直面しており、米国との協調は不可欠である。米国に日本を守ってもらいたいならば、日本も米国が困っているとき、目に見える形で手を差しのべなければならない。しかし、政府の憲法解釈では集団的自衛権の行使は認められていない。一部で、憲法解釈を変更しようという動きも見られるが、ことの発端は多様な解釈ができる憲法に問題があるのであって、解釈を変えるという小手先だけではダメである。やはり憲法第九条の改正が必要である。
日本の防衛を考えるとき、まず日本が主権国家であることを再確認し、主権国家として日米同盟をより強固なものにしていくことが求められる。被占領国家意識に満ち満ちている日本国憲法を改正することこそが、その第一歩ではなかろうか。


295日間断水で危機知る

平成15年6月28日

 私が生まれた昭和五十三年、福岡市は史上まれに見る大渇水に見舞われた。いわゆる「福岡大渇水」である。福岡市は慢性的に水不足に悩まされており、平成六年から七年にかけても大渇水があった。

 福岡大渇水のときは、私は生まれたばかりで全く記憶にないが、平成六年の大渇水のときは高校生で、二百九十五日間に及ぶ断水を経験した。

 最大で一日十二時間(午後十時から午前十時)の断水で、入浴は断水前に済ませ、母も翌日の朝食の準備を夕食後すぐにやっていた。トイレを使用する際、風呂の残り湯をバケツに汲んで運んだりもした.

 めったにできない経験で、水の大切さが身に染みた。

 六年前、大学進学のため岡山に移ったが、今も節水を心掛けている。洗濯のときは風呂の残り湯を使い、食器を洗うときも水を出しっ放しにはしない。地球規模の水危機がささやかれる今こそ、日本一の節水都市といわれる福岡で培われた節水意識を大切にしたい。

※この主張は同日付産経新聞「談話室」に掲載されました. 紙面スキャン画像


この戦争の正否は市民の笑顔で決まる

平成15年4月10日

 イラク戦争は九日、米軍がバグダッドを陥落させたことで大きな山を越えた。当初、仏独などが武力行使反対を唱えていたこの戦争も、米英が戦果を確実なものにしていくにつれて、攻撃を多とするのが世界の流れになってきている。
 しかし、このような大国の論理はイラク国民の知るところではない。重要なのはイラクの国民がこの攻撃をどのように受け止めるかである。米軍がバグダッドをほぼ制圧した九日、広場に集まったバグダッド市民は米軍と協力してフセイン像を破壊、像の上を飛び跳ねて喜んでいた。広場だけではなく街中が笑顔で満ち満ちていた。この笑顔こそが戦争の正否を判断する決定的な材料ではないだろうか。この笑顔はこれまでのフセイン政権による圧政から解放され、これから自分たちの国を造ることができることへの喜びにほかならない。これからイラクはこの笑顔を礎に自由な国を造っていくことだろう。


戦後日本に決別を

平成15年1月7日

 私は昭和五十三年生まれ、平成十五年三月で二十五歳になる。私ははじめの十一年間は「昭和」を、あとの十四年間は「平成」を生きてきたことになる。とは言うものの昭和から平成に代わったところで何かが変わったかといえばさほど大きな変化はなかったように思う。確かに、一九八九年、私が小学五年のとき、昭和天皇が亡くなり、その後の一連の代替わりの出来事を報道を通じて見ているので、それなりに印象に残っている。しかし、実際に生活していく上では時代の変化は感じられなかった。

 本来、民衆というものは時代が代われば新しい何かを求めるものである。例えば、明治から大正に代わってすぐに、大正デモクラシーがあった。大正デモクラシーは明治の藩閥政治から脱却し,民衆の政治参加や政党政治を求めた運動である.

 昭和から平成に代わって丸十四年、何か変わったことがあっただろうか?私には変化が見えない。未だに昭和を引きずっているようにしか見えない。いわば二〇〇三年は“昭和七十八年”なのである。とは言いながらも、ようやくではあるけれども、最近になって新しい時代へと動く兆しが見えてきたように思える。

 私が、未だに昭和を引きずっていると感じる元凶は国家のあり方にあると思っている。例えば日本国憲法は施行から五十五年経った今も改正されていない。それどころか日本の国会は一度も憲法を作ったことがない。明治憲法は明治天皇からいただいたものだし、今の憲法はマッカーサー元帥からいただいたものである。なんと言うことか、日本国民は自国の憲法を作ったことがないのだ。別に日本国憲法をすべて否定したいわけではない。いいところもたくさんある。しかし、国家元首も定めておらず、軍隊についても保持することを認めていない、この憲法は本当に主権国家の憲法なのだろうか?被占領時代としては立派な憲法であったとしても、独立国の憲法としてはふさわしくない。自国を防衛するのは主権国家の義務であるにもかかわらず、軍隊を保持できないである。いや、実際は自衛隊という名の軍隊があるのだが、現憲法下では自衛隊は違憲の存在といえる。なんと言う矛盾だ。我々国民を守ってくださっている自衛隊が違憲の存在であるとは国民の一人として許しがたいことだ。小泉総理は国民に理解されやすいように首相公選制に限って憲法改正しようとしているようだが、それは“逃げ”にほかならず、大きな矛盾を抱えている第九条こそ真っ先に改正しなければならないのではないだろうか。また、外国大使の接受が天皇の国事行為であることは、天皇が元首であることを暗に示しているが、明記されていないために今も国家元首に関する論議が絶えない。国会では平成十二年に憲法調査会が設置され、十四年に衆議院憲法調査会の中間報告書が提出された。本来ならば憲法の見直しは、日本が主権を回復した昭和二十七年になされるべきであった。実に五十年も遅れている。昭和三十一年、「もはや戦後ではない」という言葉が流行ったと聞くが、「未だ戦後である」の方が適切な表現である。今後、平成十七年をメドに最終報告書をまとめるという。ぜひとも、時代に合った、国民が広く受け入れられる憲法にしていただきたい。

 憲法だけではなく、政治や外交などあらゆる点で「戦後」が続いている。平成十四年、小泉総理が北朝鮮を訪問してから、ようやく本来の外交のあるべき姿が見えてきたが、それまでは相手の顔色をうかがいながらの外交であり、とても主権国家の外交とは言えるものではなかった。北朝鮮だけではなく、歴史認識や靖国問題での中国、韓国の不当な内政干渉に対しても何も言ってこなかった。これらの問題は、戦前の日本はすべて悪であるとする「戦後民主主義」という誤った考え方に基づいている。戦後民主主義は占領軍によって表現の自由が厳しく制限された時代に形成された。つまり、これもまた被占領時代の考え方なのだ。

 この誤った認識は、日教組によってこれからの日本を支える子供たちに伝えられてしまった。「個」ばかりを大切にし、「公」を考えない、いわゆる「ジコチュー」の子供たちが増えてきている。政府もようやく戦後教育の誤りに気づいたようで、平成十四年秋の中教審中間報告では、公共心や愛国心を尊重したり、学校・家庭・地域社会の連携などを教育基本法に盛り込むべきだとしている。これらは日本の古き良き伝統であり、こんな大切なことが半世紀も蔑ろにされていたと思うとぞっとする。

 ここまで述べてきたことは、ここ二〜三年、大きく変化し始めたことばかりである。この大きな変革が成し遂げられ、“戦後”に別れを告げる、つまり本当の意味で日本が独立することができれば、新しい時代“平成”を迎えることができると思うし、日本国民はそれができると信じている。


天皇に定年を

平成15年1月6日

 天皇陛下は今月、前立腺がんの手術のため東大病院に入院される。一日も早くご快癒されることをお祈りいたします。
 天皇陛下や皇族方は毎日ご公務に追われ、ゆっくりと休養を取られることもないだろう。おそらく、今回の天皇陛下のように体調を崩されない限りは、お体を休める機会がないのではないかと思う。また、陛下や皇族方はご高齢になられてからもご公務をこなしていかなければならない。陛下は今年十二月で七十歳を迎えられる。一般の人々は七十歳ともなれば、会社を定年退職し、自由な時間を楽しむ人が多いのではないだろうか。お年を召されていくにつれて、これまで通りご公務をこなしていくのも難しくなる。そこで、私は天皇に定年を設けることを提案したい。
 手段としては二つある。第一は、天皇がある年齢に達したときに摂政を置くことである。この場合、摂政は基本的にすべての国事行為を行う、もしくは、総理や閣僚の任命などごく限られたものに限って天皇が行い、あとは摂政が代行する。摂政については、現行の皇室典範で天皇が成年に達しないときに摂政を置くことが定められているので、それに一文加えるだけでよい。法改正は容易であろう。第二の手段として、天皇がある年齢に達したとき、退位し、上皇になることである。この場合の上皇は、平安時代の上皇とは違って、国事行為を行うなどの天皇としての役割は一切ない。言ってしまえば、隠居していただくのである。
 こうすることで天皇には高齢になられてから、ご公務に追われることなく、ゆっくりとご自分の時間を過ごしていただける。ただ、天皇に定年を設けることで、皇族方のご公務が格段と多くなることは確実である。昨年十一月に逝去された高円宮殿下は生前、「天皇陛下をお支えするのがわれわれの第一の務め。私にできることは喜んでやりたいと思っている」と述べられ、皇太子殿下など他の皇族方も同じような考え方を示されている。しかし、現実に今の状況を続けていくことは大変厳しいだろう。皇族方が健康を害してまでご公務に励まれることを国民は誰も望んでいない。宮内庁も皇族方のご公務を軽減することを考えるときが来ているのではないだろうか。

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