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平成15年の主張 平成13年の主張

あえて鳩山氏を応援する
平成14年12月3

 民主党の鳩山代表が突然、自由党との合流構想を打ち出した。しかも、統一会派にとどまらず新党結成をも視野に入れているという。あまりにも唐突のことで民主党内からは批判が噴出し、鳩山氏は窮地に追いやられている。党内での調整をまったくせず、いきなり小沢党首とのトップ会談を行って、「オレについて来い」的な手法は、強引で民主的ではない。到底、“民主党”の代表とは思えぬ行動だ。身内から代表辞任要求が出るのもやむを得ない。

 しかし、私はあえてこんな鳩山氏を応援したい。もちろん、今回の騒動は、鳩山氏が代表選後のゴタゴタで失った求心力を取り戻したいがゆえに起こしたもので、この点については私も鳩山氏を擁護するつもりはない。ただ、長い目で見た場合、この騒動が政界にとってプラスになるのではないかと思うのである。

鳩山氏の構想は自由党と合流して、自民党に代わり得る保守中道政党を作ることだそうだ。今の民主党はかつて自民党にいた議員から旧民社党、そして旧社会党にいた議員までもが一つ屋根の下にいる。憲法観も安全保障の考え方もまったく違う人々が同居しているのである。言ってしまえば、野合政党である。主義・主張がまったく違うのだから、国旗国歌法案や対テロ特措法案などの重要法案で党が割れるのは当然である。重要法案の採決をするたびに党内が対立するようでは国民の支持を得られるはずがない。民主党の支持率が伸びない原因である。

そうした中で、今回の鳩山氏の構想を進めていけば民主党はどうなるだろうか。おそらく、横道氏ら旧社会党系の左派議員は自ら党を出て行き、党内には自由党から移った議員も含めて、保守系の議員ばかりが残るだろう。一見、党が分裂して混沌とするように見えるが、実際は主義・主張が異なる者が同居する政党から、同じ主義の者だけが集う政党に生まれ変わり、すっきりとするのである。これまでバラバラだった党内が一枚岩となることで、党内事情も気にしなくてもいいから、これまで言えなかったことも言えるようになる。そうすればようやく自民党と対等に議論でき、国民の支持も得られるようになるのではないかと考えている。


投票率低下の悪循環を断て
平成14年11月1

 十月二十七日に衆参七選挙区で補選の投票があった。投票率は五選挙区で前回より20ポイント以上ダウンするなど、すべての選挙区で過去最低となった。
 この投票率の低下については政治不信を理由に挙げ、政治家の責任にしてしまう傾向にあるが、私は政治家だけではなく国民の側にも原因があると思う。
  政治家は国民の信託を受け、国政の審議に当たる。つまり、国民の支持があってこそ政治家が活動することができるのである。
 今日の日本の政治について、国民は「まともな政治家がいないから投票しない」。政治家は「国民が見ていないからまじめに政治をしなくてもいい」。そして選挙に際し国民は「誰が選ばれても変わらないから投票しない」。
 このような悪循環に陥っている。デフレスパイラルならぬ「投票率低下スパイラル」である。
 投票率低下に歯止めをかけるためには、このスパイラルを断ち切るべく政治家と国民双方が努力しなければならない。

※この主張は同日付産経新聞「談話室」に掲載されました. 紙面スキャン画像


総理の訪朝で妥協は認められない
平成14年9月2

 小泉総理が日本の総理大臣として初めて北朝鮮を訪問することになった。日朝間の長年の懸念を解決する第一歩として期待するところもあるが、やはり不安のほうが大きい。なぜならば、これまでも北朝鮮は日本をそして世界を裏切ってきたからだ。
 北朝鮮は経済が破綻し、一部の最高幹部を除く大多数の国民は飢えに苦しんでいる。だから戦後補償の名目でカネを要求するだろう。しかし、日本と北が直接戦ったわけではないから日朝間にそのような問題は存在しない。それでも北は“人道” 的支援を求めるだろう。“人道”を持ち出すならば、その前に北が日本に対する“人道”問題を解決しなければならない。言うまでもなく拉致問題である。北が日本人拉致を認め、謝罪しない限りは、人道的支援も国交正常化もありえない。北は何らかの妥協を模索するかもしれないが、この点においては妥協してはならない。もし妥協すれば、それはイコール小泉政権崩壊である。


NHKは災害報道を優先すべき
平成14年7月12

 台風6号が紀伊半島沖を通過していた10日午後,NHK総合テレビでは国会中継を放送していた.この日の国会中継は参院予算委の集中審議で,防衛庁リスト問題など国民の関心が非常に高いテーマがずらりと並んでいた.NHKは公共放送であるから,国民の代表である国会議員が国民のためにどんなことを話し合っているのかを伝えるのは当然だ.
 しかし,この日に関して言えば国会中継よりも台風情報を優先すべきではなかったか.確かに台風は本州の沖合を進んでいて,陸地に暴風域はかかっていなかった.けれども,国会中継を放送していたころ,岐阜県内では既に豪雨に見舞われていた.しかも記録的な豪雨で人命に危険が及んだかもしれない.こういうとき,NHKは災害対策基本法に指定公共機関に定められた唯一の報道機関として災害報道に取り組むべきではなかったか.
 国民の生命と国会審議とどちらが大切なのか,NHKにはきちんと考えていたい.


「にわか愛国心」に終わらせないために
平成14年7月1

 サッカーのW杯が終わった。普段サッカーなど見ない私でさえも毎日のようにテレビに釘付けとなり、「にわかサッカーファン」になってしまったようだ。
 私が最も印象に残ったのは、あれだけ愛国心を持っていないと言われた日本人が日章旗を振り、君が代を歌い、「ニッポン!」コールを連呼していたことである。スタジアムだけではなく、日本中でこの光景が見られた。世代を超えて、日本人の心が一つになった。みんな愛国心を持っているじゃないか、私はそう思った。
 しかし、不安なことがある。それはこの愛国心がW杯開催中だけの期間限定ではないのかと。国際スポーツ大会というのはナショナリズム同士の激突であるから自然と愛国心が高まるものである。それだけにW杯が終わって、国旗・国歌を粗末に扱ったりしないか、日本という国を見下したりしないか心配である。
 サッカーファンは一時的でいいとしても、愛国心だけは持ち続けたいものである。


有事法制は与野党を超えて議論を
平成14年5月16日

 現在、国会では有事法制が審議されている。国民の生命・身体・財産を守ることが政治の役割であるから、主権回復から五〇年間、有事関連法が整備されなかったことは政治の怠慢以外の何者でもない。
 ところで、この法案審議を見ていると、与野党は常に対立していて建設的な議論がなされていないように思える。国家の根本に関わる重要法案については与野党を超えて国民第一で議論されなければならない。有事に関して言えば、共産・社民を除く各党が法整備の必要性を認めているのだから、与党三党は民主・自由党も交えて法案を作成すべきだったのではなかろうか。特に自由党は以前から憲法改正も視野に入れた有事法制を主張しており、法案作成段階から自由党の協力を仰いでおけば、あのような中身のない政府案にはならなかったはずである。
 国家の基本問題については、与野党の別にとらわれず、国会全体として取り組んでほしい。


真の外交を知らない日本政府
平成14年3月30日

 このところの日本政府の対応をみると真の外交を知らないのではないかと思う。昨年五月、北朝鮮総書記金正日の長男、金正男が成田空港に不法入国した際、政府は国外退去処分とした。このような場合、一般人であっても入管法違反で逮捕するのが通例である。それが邦人拉致疑惑国の要人ともなれば捕捉して、外交カードとして使うのが普通の国のやることであろう。
 対北人道支援も同様である。政府部内には人道支援と拉致問題を切り離して考えるべきだという意見が大勢を占めているようだが、それは大きな間違いである。拉致問題こそが人道問題なのだ。拉致問題を解決してはじめて、食糧援助を行う条件が整うのだ。日本政府は日朝国交正常化を進めるために北朝鮮にあらゆる配慮をしているが、それはまともな外交ではない。外交は双方が対等な立場でなければならない。北に対して腰を低くしたままでは拉致問題も解決せず、国交正常化も実現しないだろう。


いつの世も「象徴」である皇室
平成14年3月5日

 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。これは言うまでもなく日本国憲法第一条である。戦前の帝国憲法に「象徴」という言葉は見当たらない。しかし、天皇そして皇室は国民の意識の中ではいつの時代も「象徴」であったのではなかろうか。

 その憲法に定められた天皇の仕事といえば、第七条などの十三項目の国事行為である。しかし、それら法で定められた行為は国民から離れたところで行われていて、しかも天皇の意思が汲み入れられない形式的な行為である。もちろん、日本国の象徴としてそれらの国事行為はたいへん重要ではあるが、国民の多くはそれとは違うところに象徴としての存在を感じているだろう。

 国民が皇室を最も親しく感じるのは直接接するときである。国民が皇室と接する機会というと、天皇陛下や皇族方が地方をご訪問されるときが思い浮かばれる。皇族方は国民と話を交わされ、幼児らに交じってゲームに参加されることもある。また、大災害が起こったときには被災地を見舞われることもある。避難所ではひざをついて被災者と同じ目線の高さでひとりひとりに声をかけられ、勇気付けられる。政治家がどんなに支援を表明しても、それは物的支援であって、心の支援にはなりえないし、被災者を見下ろすような高い位置から話しかけるのでは被災者の心情を害するだけである。阪神・淡路大震災で神戸の被災地を見舞われた皇后陛下のお手を小学生が離そうとしなかったことは私の心に強く焼き付いている。災害だけではない。例えば、平成十年の長野パラリンピックでは皇后陛下が会場の観客とともにウェーブに加わられた。皇后陛下ご自身もお誕生日の会見で印象に残った出来事とされている。雨の中開かれた平成十一年のご即位十年記念式典で天皇陛下は「皆さんもぬれて寒いのではないかと心配しています」と国民を気遣われた。

皇室の方々が国民のことを思われるのは何も国民の前だけではなく、国民の目に見えないところでも同様である。そもそも宮中祭祀というものは天皇陛下や皇族方が天下泰平を祈願するために営まれているものである。さらに、平成九年夏、両陛下は京都の石清水八幡宮を参拝されたが、これは歴代天皇が日本の国難に際して国の安泰を祈られたことに倣ったと伝えられている。両陛下が国民の生活を案じられている証しである。

 皇室の方々はいつも世界の平和を祈願されている。昭和のはじめ、天皇の意に反して軍部が戦争に走ろうとしたとき昭和天皇は軍部を厳しく叱責し、戦争を避けるための努力を続けられた。残念ながら戦争に突入してしまったが、国民をこれ以上苦しませたくないという思いから終戦のご聖断を下された。

 皇室というのはこのように国民が苦しんでいるときに励ましてくれる、まさに国民の心の支えになることにこそ存在意義があるのだと思う。

 ところで、昨年、敬宮愛子内親王殿下がご誕生になったこともあり、女性も皇位につけるようにするための皇室典範改正論議が盛んになっている。まず、この論議と内親王ご誕生を関連付けてはならない。内親王殿下はご両親の間に望まれてお生まれになり、わが国の宝であるには違いないのだから。その上で、わが国において女帝はどのようなものであったか考えてみたい。皇位継承権が男性にしか認められていないのは二六六〇年余の皇室の歴史のなかで旧皇室典範が制定された明治二十二年以降のたかだか百十年余である。したがって宮内庁などがいう「伝統だから慎重に議論を」は当たらない。むしろ、女帝を認めるほうが伝統に沿っているのではないだろうか。歴史を振り返れば、天皇ではないが卑弥呼のように日本を国難から救った女王もいる。これからの日本に卑弥呼のような天皇がいてもいいのではないだろうか。男女同権の時代ということもあるかもしれないが、世論は女帝を認めている。認めているというよりも、国難の時期にあって女性を象徴としていただくことを望んでいるのかもしれない。昨年の日本世論調査会の調査でも約七割が女帝を認め、過去最高を記録している。もちろん女帝制度を実行に移すにはさまざまな課題があるだろう。しかしまだ時間はいくらでもあるのだから、国民的合意が得られるまでじっくりと議論すればよい。

 これまで天皇皇后両陛下は"平成流"と呼ばれるような「開かれた皇室」を実践されてきた。皇太子ご夫妻もこれを踏襲されている。この「開かれた皇室」は「国民を思う気持ち」が根底にあり、古くから代々受け継がれてきた。だからこそ、いつの世も、たとえ実権を握るものが代わろうとも、皇室は国民から「象徴」として敬愛され続けているのである。これからも皇室が国民とともに歩みつづけることで、いつまでも国民の心の中に「象徴」として存在しつづけるであろう。


首相の明治神宮参拝見送りは非礼
平成14年2月17日

 ブッシュ米大統領は今回の訪日の際、明治神宮を参拝する。小泉首相も賓客をお迎えする側の責任者として当然一緒に参拝すると思っていたが、どうもそうではないらしい。官邸の言い分によると「大統領に同行すると公式参拝になり憲法に抵触する」らしい。しかし、その憲法二十条について最高裁は「目的が宗教的意義をもち、その効果が特定の宗教を援助するような場合でない限り、憲法に違反しない」と判断している。そもそも明治神宮参拝は日本のシンボルを視察したいという米側の希望であり、これが神道を援助することにはならない。
 おそらく首相は昨年の靖国参拝をめぐる違憲訴訟に影響を与えたくないというきわめて個人的な理由で明治神宮参拝を渋っているのだろう。個人的な理由で参拝しないとなるとせっかく米国からお見えになったお客様に対して失礼に当たるのではないだろうか。このようなところで国益を損なうようなことは慎んでいただきたい。


日本文化知って国際社会へ
平成14年2月1日

 一月二十六日付本欄で「日本文化拒む西暦偏重思考」との投書があったが、私も同感である。今やマスコミはほとんどが西暦を用いている。その中で産経新聞が元号を重視しているのは大変評価できる(本来ならばそれは特別評価することではなく普通であるべきなのだが)。
 西暦以外に独自の暦を持つ国々ではその暦を重視している。イスラム諸国などがそうである。しかし日本はどうだろうか。どこに行っても西暦が氾濫し、元号などお目にかかることはほとんどない。今の日本人は自国の文化を軽視しているのだろうか。
 友人にそのような話をすると「今は国際化社会だから」と話をそらそうとする。しかし、国際化社会だからこそ自国の文化を大切にすべきではなかろうか。自国の文化を知らずして国際社会で活躍できるはずがない。
 これから国際社会に出て行こうという人たちには、自分自身が日本の文化をよく理解していることを確認していただきたい。


「祝日」の持つ意義を再度考える

平成14年1月19日

 再び持ち上がっている「昭和の日」の論議を機会に、いま一度、年間十四日のそれぞれの祝日の意義を考えてみたい。

 次期通常国会で、現在の「みどりの日」(四月二十九日)を「昭和の日」に改称する祝日法改正案が審議される運びになっている。この日はいうまでもなく、昭和天皇のお誕生日である。それが、どうして「みどりの日」という意味不明の名称になったのか。

 昭和天皇が亡くなられた後、この日をどうするか、国民の間で議論を呼んだ。昭和という激動の時代をいつまでも心に留めておくという意味で、祝日として残す考えには、大多数の国民は賛同していた。

 しかし、国会を通過した祝日名は「みどりの日」。どこにも時代を象徴するような意味がない、単なる記号に過ぎない名称である。時の政府が天皇制に批判的な勢力の反発を考慮して、国民の意に反した結論を出したようである。

 本来、祝日は国民がこぞってお祝いする意味のある日だ。民俗的風習や歴史的背景を必ず持っているはずだが、戦後、政治的意図が働いて、あまりに安易に名称を改正されてしまった経緯がある。祝日法には、それぞれの意義が解説されているが、その日の由来はほとんど書かれていない。

 例えば、十一月二十三日の「勤労感謝の日」は、戦前までの旧祝日では「新嘗祭(にいなめさい)」と言われた。天皇がその年に収穫した新穀を天地の神に供え、自らも食する宮中の祭儀だが、食に対して感謝する民俗的な祈りも込められている。

 それが「勤労感謝の日」になったのは、敗戦後の占領政策の意図が働いてからであろう。こうした動機で深い意味もなく、由緒ある名称が次々と変えられていった。果たして国民が祝う気持ちになるだろうか。

 三連休を増やすハッピーマンデーの制度などは、祝日が持つ意味の重さを失わせた元凶の一つといえる。祝日法にある「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげる」とする趣旨が泣いているのではないか。

※この主張は同日付産経新聞「談話室」のテーマ投稿「昭和の日」に掲載されました. 紙面スキャン画像

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